土で器をつくるという事

  日本の焼きものの歴史は、縄文・弥生から始まりとても古いです。中国・朝鮮半島をへて、日本の風土に根を下ろした焼きものが、各地に生まれました。物の流通が盛んになるにつれて、人々の生活の中、道具として量産されるようになり、気軽に使えるようになってきたと言えましょう。人には、それぞれいろいろな表現があると考えます。大昔の人は、特別なものを入れる為、土を焼いて器にしたと思います。縄文・弥生時代は、女性がその制作にたずさわり、土偶など大自然に対して畏敬の念を込めて、祈る思いでつくったと考えられます。また、神様へのご供物の器としてのものがほとんどでした。現代のような科学技術のない時代には、大いなる大自然の不思議な力に身を委ねることしか出来なかったのでしょう。人間が真実をこめて神仏に祈る、形なき目に見えないものにすがる、自分の真心が天地自然と感応すると信じているからだと思います。天地自然と一体になると畏敬と慎みが生まれてくる、万物の霊長・人間としての善のすがただと言えましょう。
 私は、四季の変化がある日本は素晴らしいと感じております。今の日本は、溢れる物の中で、選択と言う名のもとに、ものを奪い合っています。それぞれの環境の中、どのようにものと出会うかによって、本当の自分を知ることが大切であると考えます。人は、他の動物と違い、柔らかな手で道具を使い、自然の恵みを器にのせて、温かく家族みんなで食卓を囲みました。私たちは、食前に「いただきます」と言う習慣があります。私は、その言葉はとても大切であると思います。人が生きることは、すべてに「いただきもの」であることは承知の事実であります。太陽の暖かな熱量、風・雨の力、空気・水のおいしさにしても、その「いただきます」という感謝の思いでいっぱいになるのが本当でしょう。いろいろな事を学んで習う事は、多くの先人や大自然の力を進んでいただく事であり、真にそれを共に味わい知った時はとても嬉しく楽しいことでしょう。
私が、皆様と少し違うという点があるとするならば、陶芸という仕事をとおして、土より、火より、水より、木より、大宇宙より力をいただいていることを信じているというところかもしれません。土は生きものであると信じて、そして器を作り、生活の中で使われ生かされ、多くの出逢いの中、大自然の不思議を感じ知り、人々と共に感動できたならば最高でしょう。
そう願いたく・・・これは少しばかりの、私のひとり言です。あしからず。

●子曰く、学んで時に之を習ふ、亦悦(よろこ)ばしからずや。朋有り遠方より来る、亦楽しからずや。知らずして慍(いか)らず、亦君子ならずや。(論語学而第一)
●道なるものは須臾(しゅゆ)も離るべからざるなり。離るべきは道に非るなり。是の故に君子は其の睹(み)ざる所に戒慎し、其の聞かざる所に恐懼(きょうぐ)す。隠れたるより見(あらは)るるは莫く、微かなるより顕(あきら)かなるは莫し。故に君子は其の独を慎しむなり。(中庸章句)
2003年11月吉日 風野工房ギャラリー 竹村嘉造陶展において



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