窯変コラム

窯焚き写真

先日5月の展示会に向けて窯焚きをしました。
そのときの様子です。

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真の創造の美を求めて

自分は、大海に浮かぶ一枚の木葉のようだ。 どこの源から流れてきたのだろう。
どんな人でも美というものに出合わなければ、それがどんなものであることさえわからない。初めての感動というものもそれと同様で、知識や学問がまったくない人でも、すばらしい感動さえあれば「美」を求める心が生じないはずはないと思う。   善い友に親しんで、善き師に出逢って、熱心にそのすばらしい感動の話に耳を傾ければ、自然に正しいものの見方ができるようになるだろう。愚昧な自分の眼前の霧が晴れてくる。その時は、過去の優劣の差別などなく、それぞれの表現の道が幾筋も開かれているだろう。
「人工の創造の美」を幾重も越えて、「真の創造の美」に近づきたい。
日本という環境風土に根差した美とは何か。
古代から続いている美しい言葉。いのちの言葉。 ものを生かすエネルギー、ものから生かされる温かな優しい表現。
人間が存在するという天地創造の美が、ことばの姿になって日本人をかたちづくっていると思う。現代人は、天地の魂を揺り動かす言葉を失っている。
この国の多くすばらしい古典には、いっぱいそれが詰まっているのに・・・。
多くの日本の人々は、まるで自分とは無関係のように感じてしまっている。
自分の遺伝子が解明される時代にもかかわらず、己の美しい根っこを失っている。
日本の自然の原点に帰りたい。
からだ全体で大地を耕し、青く広い高い空を仰ぎ見、こころの旅をしたい。
正しいものに出逢いたい。本物の美に出逢いたい。
私のやきものの道程は、いのちの発見であり、いのちの言葉の表現でありたいと願っている。
願わくば、初心を忘れず大志をもって、真の美に近づきたい。
願わくば、多くの善き師に出逢い、深く学び、楽しんで精進したい。
願わくば、生活の中、大地の恵みへ感謝し、自分のつくった器を出合いにして、悲しみも喜びも踏越えて、人々と共に幸せになりたい。  
そう祈る毎日です。 まだまだ拙いものですが、皆々様にご高覧賜りたく存じます。
 2003年個展に臨んで    

土で器をつくるという事

  日本の焼きものの歴史は、縄文・弥生から始まりとても古いです。中国・朝鮮半島をへて、日本の風土に根を下ろした焼きものが、各地に生まれました。物の流通が盛んになるにつれて、人々の生活の中、道具として量産されるようになり、気軽に使えるようになってきたと言えましょう。人には、それぞれいろいろな表現があると考えます。大昔の人は、特別なものを入れる為、土を焼いて器にしたと思います。縄文・弥生時代は、女性がその制作にたずさわり、土偶など大自然に対して畏敬の念を込めて、祈る思いでつくったと考えられます。また、神様へのご供物の器としてのものがほとんどでした。現代のような科学技術のない時代には、大いなる大自然の不思議な力に身を委ねることしか出来なかったのでしょう。人間が真実をこめて神仏に祈る、形なき目に見えないものにすがる、自分の真心が天地自然と感応すると信じているからだと思います。天地自然と一体になると畏敬と慎みが生まれてくる、万物の霊長・人間としての善のすがただと言えましょう。
 私は、四季の変化がある日本は素晴らしいと感じております。今の日本は、溢れる物の中で、選択と言う名のもとに、ものを奪い合っています。それぞれの環境の中、どのようにものと出会うかによって、本当の自分を知ることが大切であると考えます。人は、他の動物と違い、柔らかな手で道具を使い、自然の恵みを器にのせて、温かく家族みんなで食卓を囲みました。私たちは、食前に「いただきます」と言う習慣があります。私は、その言葉はとても大切であると思います。人が生きることは、すべてに「いただきもの」であることは承知の事実であります。太陽の暖かな熱量、風・雨の力、空気・水のおいしさにしても、その「いただきます」という感謝の思いでいっぱいになるのが本当でしょう。いろいろな事を学んで習う事は、多くの先人や大自然の力を進んでいただく事であり、真にそれを共に味わい知った時はとても嬉しく楽しいことでしょう。
私が、皆様と少し違うという点があるとするならば、陶芸という仕事をとおして、土より、火より、水より、木より、大宇宙より力をいただいていることを信じているというところかもしれません。土は生きものであると信じて、そして器を作り、生活の中で使われ生かされ、多くの出逢いの中、大自然の不思議を感じ知り、人々と共に感動できたならば最高でしょう。
そう願いたく・・・これは少しばかりの、私のひとり言です。あしからず。

●子曰く、学んで時に之を習ふ、亦悦(よろこ)ばしからずや。朋有り遠方より来る、亦楽しからずや。知らずして慍(いか)らず、亦君子ならずや。(論語学而第一)
●道なるものは須臾(しゅゆ)も離るべからざるなり。離るべきは道に非るなり。是の故に君子は其の睹(み)ざる所に戒慎し、其の聞かざる所に恐懼(きょうぐ)す。隠れたるより見(あらは)るるは莫く、微かなるより顕(あきら)かなるは莫し。故に君子は其の独を慎しむなり。(中庸章句)
2003年11月吉日 風野工房ギャラリー 竹村嘉造陶展において

ものをつくるということについて(5)-飛行機雲

仕事を終えて帰宅するある日の夕方、西の空に飛行機雲が交差するところに遭遇した。1機は夕日に向かい西の空へ、もう1機は北から私の頭上に向かった。機影はかすかだが、その後ろから出る白い雲は勢いよく空のキャンパスの上をクロスした。まるで子供が描くように。そして、そのかたちが少しずつ崩れてゆく様は、バックに沈む夕陽と複雑に変化してゆく空の色と絶妙に溶けあって抽象絵画のようだ。一時我を忘れ、その造形にひたっていた。時として自然のつくりだす色は美しく、自分の存在を忘れさせてくれる。・・・ある小道で出会った紫ツユクサの淡い色彩も美しかった。
 かたちあるものは存在するというけれども、美しく心に残るものは、かたち無くともいつまでも有るということか。我を忘れさせてくれる存在に、美の本質は秘されていると思う・・・。印象が、永遠の色彩として心の中に刻まれる・・・。
 畏敬にして歓喜を与える妙色は、無相の相にして有相の身であるのか・・・。
2000年初夏

ものをつくるということについて(4)-耨(ノク)

暖かな早春の日、私はある古い寺の山門をくぐった。正面本堂の中に、平安時代の阿弥陀如来さまが鎮座しておられる。天台密教の常行堂におられた仏様でお顔が厳しいとの説明を受けた。その日は、寺で特別な行事があり境内を散策し庫裡でお茶をいただいた。私は、奇遇にも般若心経の1字写経をさせていただくことになった。其の1字は阿耨多羅三藐三菩提の「耨(ノク)」という字であった。これも何かのご縁と思って家に帰って早速辞書で意味を調べてみたら、田を鋤き草を除く農具のくわ、又くわで田を鋤き草を除く行為という意味であった。
 はてしなく広がる荒地をくわで堀り耕すことを常行とし、厳しく人生を観つめ掘り探ることを教えていただいけた心境になった。
 そよ風が、小さな白い梅の花を揺らしている。まるで白のスパンコールのようだ。
2000年春

ものをつくるということについて(3)-胡瓜の葉

 ある夏の昼下がり、ろくろ場の窓から見える菜園に胡瓜の棚がある。その葉は陽に照らされて元気なく萎れていた。朝や空気中に湿り気がある日などは大きくシャンと広がって堂々としている。胡瓜は、その葉かげで青々と光りながらスクスクと育っていた。私は、時々その葉の数の多いことを感じていた。まわりを見渡して植物たちのなんて葉の多いことか。陽の光は葉の中で養分となり、眼には見えぬその流れは、茎を通りかわいい黄色い花の下のふくらみを大きくさせる。けなげに素直にまあ良く実る胡瓜は、光や水や空気、土そして育てた人の優しいかたち。不思議なかたち。やがて胡瓜の葉は枯れかけ勢いはなくなったが、ある夕立の雨の中、黄アゲハがじっと葉かげで雨宿りしていた。そして微かにゆれていた。
  今、棚はしまわれそこには大根の苗が植えられている。その小さい葉は凛と広がっていた。
  田は、こがね色に輝き、山のどてでは淡いピンク色の萩の花が揺れている。秋風のかたち。
 1999年初秋

ものをつくるということについて(2)-雪の結晶

 雪の日は静か。灰色の空から、ぼた雪が降りてくる。雪の結晶のこと、娘との会話の中でふと考える。結晶はどのように成長するのかなあ。とても美しい形は、その成長が微妙な表現。ものがあるということは、殻があるから存在する。細胞に核があり、細胞膜があるように、眼に見えるもののかたちは、それを取り巻く世界と境する。その境が美しくも、醜くも見えたりする。素直に和敬にして境界というものを感じたとき、すべてが美しく観えるのかもしれない。氷の粒が冷気と出合い、境を縫って成長する時、えも言われぬ美しい雪の結晶になるのだろう。意識の中にない見えない境に深い思いをいだきながら、ロクロの上で土は伸びてゆく。
 外は雪。ストーブのわき、剥いた林檎の薄い皮から、美味しい香りが流れてくる。
1999年早春

ものをつくるということについて(1) -豆の実

 十歳になる娘が、2羽のうさぎを飼っている。ある日、うさぎの餌の中に一粒の大きめの豆のたねが入っていた。うさぎも食べ残したので、糞といっしょに畑のすみに捨てた。何日か経ったある日の朝、緑の芽がでているに気づいた娘が、驚いて私のところへ言ってきたので、小さな鉢に土を入れて植えることにした。どんどん大きくなり、高さ40センチぐらいになった時、白い花が咲いた。土の量が少なくてこのままでは貧相に思えたので、陽の当たる小庭の隅に直に植え替えることにしたら、蝶や蜂が飛んできてなんだか豆の花もうれしそうで喜んでいるようで、またどんどん背を伸ばし花の数も増えた。そして、ある日ふと豆の様子を見るとなんと実ができていた。
 私は、土で焼き物をつくる職業であるが、豆を見ていると変化する環境の中で、いろいろなものとの出逢いが豆を育てているのに気づいた。ものが存在するということは、多くのものから育てられていることなのかもしれないと深く感じた。つくるというとこは、自分が育てられていることに気づくことであるし、他を育てることではないだろうか。人間は、出会ったものから何かを学ばなければ成長できない存在なのかもしれない。
 初夏の小庭の隅、1本の豆の木の下で、娘のうさぎが根のところで穴を掘って遊んでいる。
1998年初夏


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